冬の京都へ(前編)…島津創業記念館再訪 ― 2013年01月28日 20時49分38秒
今回の小旅行の行き先は京都でした。
主目的は寺社参拝というオーソドックスな旅で、しかも連れがいたので、理科趣味的色彩は薄い旅でしたが、合間を縫って島津創業記念館を再訪したので、そのことをメモしておきます。
主目的は寺社参拝というオーソドックスな旅で、しかも連れがいたので、理科趣味的色彩は薄い旅でしたが、合間を縫って島津創業記念館を再訪したので、そのことをメモしておきます。
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一昨年訪問した折(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/10/21/6165208)は、島津の旧本社ビルが改築中で、その優美な姿を見ることができませんでしたが、今回は十分楽しむことができました。
(今回はカメラを持参しなかったので、携帯で撮った小さな写真で雰囲気だけお伝えします。)

かつての科学技術の牙城も、現在は「FORTUNE GARDEN KYOTO(フォーチュン・ガーデン・キョウト)」というレストラン&ウェディング施設に衣替えしており、古き科学の香りを探るべくもありませんが、その分、部外者が気軽にモダン建築の妙を味わえるようになったのは喜ぶべきことかもしれません。ちなみに、記念館の方に伺った話によると、敷地と建物は依然として島津製作所の所有で、それをフォーチュン・ガーデンに賃貸ししているのだそうです。
(記念館でもらったフォーチュン・ガーデンのパンフレットから。中には重厚なムードのバーもあるそうで、これはちょっと行ってみたい。)
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さて、肝心の記念館の方ですが、展示内容はほぼ同じでも、前回より心を落ち着けてじっくり見て回ることができたので、とてもよかったです。何事も繰り返し見ることが大事だと実感しました。
今回嬉しかったのは、前回はなかった18ページの紹介パンフができていたことです(100円也)。いずれ、完全な収蔵品目録が作られることを期待したいですが、その一部にしろ、こうして解説付きのきれいな印刷で見られるのは嬉しいことです。

前回はあまり見ずに通り過ぎてしまった、グレゴリー式反射望遠鏡。各地の学校から寄贈された理科機器の一部として展示してありました。メモ代わりに撮った写真が、メモの役割を果たさなかったのが残念ですが、刻印されている名称はオランダのメーカーのもので、寄贈元は(たぶん京都の)大谷高校だったと思います。

先日、「ジョバンニが見た世界」の連載の中で、グレゴリー式望遠鏡を取り上げたので、特に印象深く思ったということもありますが、それ以上に気になるのは、この望遠鏡の来歴です。大谷高校はその前身をたどっても、明治8年(1875)の開学であり、この望遠鏡はそれよりもずっと古いもののはずですから、なぜこれが同校に伝わったかは、ちょっとしたミステリー。
関係者が学校に寄贈したものだとしても、大谷高校は浄土真宗大谷派(東本願寺)が母体の仏教系の学校ですから、お寺さん関係の人で、こんなハイカラなものを持っている人がいたのかどうか…?
昭和の時代に入れば、浄土真宗木辺派の管長を務める傍ら、鏡面研磨の達人として名を馳せた木辺成麿氏のような傑物や、あるいは浄土真宗本願寺派の僧籍にありながら、地球儀製作を業とするようになった渡辺雲晴氏(渡辺教具初代)のような異才もありますが、江戸・明治の昔にも、天文趣味を追究した僧侶がいたとすると、なんだか愉快な気分になります。
★
島津創業記念館を見た後は、これまた以前からこだわっている、戦前のコンクリート校舎の実例を見るために、旧・京都市立明倫小学校を訪ねました。そのことも書いておこうと思いますが、ちょっと文章が長くなったので、ここで記事を割ります。
(この項つづく)
コメント
_ S.U ― 2013年01月29日 07時00分02秒
_ (未記入) ― 2013年01月29日 11時45分54秒
木辺成麿氏がお坊さんだということは知っていましたが、渡辺教具初代もなのですか。
仏教には古びたイメージがありますが、飛鳥時代に仏教が取り込まれた時には、現代で言う科学分野も含めて最先端の学問だったわけですから、最高の知性が考えた世界像を内包しているはずです。最高の知性が考える事は、今も昔も案外似た様な事かもしれません。
仏教には古びたイメージがありますが、飛鳥時代に仏教が取り込まれた時には、現代で言う科学分野も含めて最先端の学問だったわけですから、最高の知性が考えた世界像を内包しているはずです。最高の知性が考える事は、今も昔も案外似た様な事かもしれません。
_ かすてん ― 2013年01月30日 09時29分56秒
前のコメントに名前を書くのを書き忘れました。
_ 玉青 ― 2013年01月30日 20時57分36秒
○S.Uさま
お知らせありがとうございます。
業務連絡の件も、どうぞよろしくお願いします。
それにしても、こうして見ると、みんな浄土真宗系の人ですねえ。
仏教と星のつながりといえば、真言・天台、あるいは日蓮宗というイメージがありますけれど、こうした宗派は教義の縛りがあって、かえって西洋の天文学とは相性が悪かったんでしょうかねえ。
○かすてんさま
「自分が生まれた世界を理解したい」ところから科学は始まり
「自分が生まれた意味を知りたい」ところから宗教は始まった
…のかもしれません。
でも、各宗教は多かれ少なかれ、特定の世界観や、現象の説明原理を提供しますから、その部分では「科学」(経験科学ではないにしろ)を包摂しているとも言えそうです。特に仏教はその傾向が強いかもしれません。
(まあ、仏教も時代が下ると、須弥山説に固執して西洋天文学を排撃する「反動的」なお坊さんが現われたりして、知性とは縁遠い様相も見せてきますが…)
お知らせありがとうございます。
業務連絡の件も、どうぞよろしくお願いします。
それにしても、こうして見ると、みんな浄土真宗系の人ですねえ。
仏教と星のつながりといえば、真言・天台、あるいは日蓮宗というイメージがありますけれど、こうした宗派は教義の縛りがあって、かえって西洋の天文学とは相性が悪かったんでしょうかねえ。
○かすてんさま
「自分が生まれた世界を理解したい」ところから科学は始まり
「自分が生まれた意味を知りたい」ところから宗教は始まった
…のかもしれません。
でも、各宗教は多かれ少なかれ、特定の世界観や、現象の説明原理を提供しますから、その部分では「科学」(経験科学ではないにしろ)を包摂しているとも言えそうです。特に仏教はその傾向が強いかもしれません。
(まあ、仏教も時代が下ると、須弥山説に固執して西洋天文学を排撃する「反動的」なお坊さんが現われたりして、知性とは縁遠い様相も見せてきますが…)
_ S.U ― 2013年01月31日 07時19分46秒
>浄土真宗系~真言・天台、あるいは日蓮宗
宗派までは気にしたことありませんでしたが、そうなのですか。江戸後期の「反動的」坊さんも浄土真宗のようですね。僧侶個人の世界観によるのか「教会」の制約によるのかはわかりませんが、広い意味でのおっしゃる「教義の縛り」のようなものがあるような気がします。
私が檀家の家族として「密教信者」をやっていたお寺の現住職さんは、講演や種々の著作でけっこう知られた方ですが、著作や説法で西洋科学に触れる時は、「現代科学ではこういう見方になっているが、仏教ではこのように見ている」というふうに、見方の違いを強調するかたちになることが多いようです。子どもの頃によく話を聞いた引退された先代住職も、やはり、学校で習うような内容ではなく仏教独特の世界観に基づく話ばかりだったように思います。宗派的には、こちらが多数派だと思います。
宗派までは気にしたことありませんでしたが、そうなのですか。江戸後期の「反動的」坊さんも浄土真宗のようですね。僧侶個人の世界観によるのか「教会」の制約によるのかはわかりませんが、広い意味でのおっしゃる「教義の縛り」のようなものがあるような気がします。
私が檀家の家族として「密教信者」をやっていたお寺の現住職さんは、講演や種々の著作でけっこう知られた方ですが、著作や説法で西洋科学に触れる時は、「現代科学ではこういう見方になっているが、仏教ではこのように見ている」というふうに、見方の違いを強調するかたちになることが多いようです。子どもの頃によく話を聞いた引退された先代住職も、やはり、学校で習うような内容ではなく仏教独特の世界観に基づく話ばかりだったように思います。宗派的には、こちらが多数派だと思います。
_ 玉青 ― 2013年01月31日 21時01分42秒
なるほど、「反動派」の巨魁、佐田介石は真宗の人でしたね。
そういえば、賢治は親鸞を離れて日蓮に接近したわけですし、となるとこの件は、宗派ごとの教義の影響もなくはないが、それ以上に個人的要因の影響が大きかったのかなあ…という気もしてきました。
それにしても、(科学と芸術が対立しないように)科学と宗教も本来対立するものではないはずなのに、往々にして対立してきたのは何故なんでしょう。…いや、やっぱり本来的に対立する要素があったんでしょうか。
改めて考えると、<事態の説明・予測・制御>という機能において、両者は明瞭に競合する部分があり、しかもこの点では科学の方がずっとうまくやれたので、両者の対立(敵意)が、主に宗教の側から科学に向けられたのも、むべなるかなという感じです。
おそらく、科学との対立を超えて宗教が目指すべきことは、「人は何のために説明を求めるのか?何のために予測と制御を必要とするのか?」という問いに答えること、すなわち人生の価値とか目標、あるいは幸福に絡む領域であり、そこに自らのアイデンティティを求めるべきではないかと思います。(えらい話が大きくなりましたが)
そういえば、賢治は親鸞を離れて日蓮に接近したわけですし、となるとこの件は、宗派ごとの教義の影響もなくはないが、それ以上に個人的要因の影響が大きかったのかなあ…という気もしてきました。
それにしても、(科学と芸術が対立しないように)科学と宗教も本来対立するものではないはずなのに、往々にして対立してきたのは何故なんでしょう。…いや、やっぱり本来的に対立する要素があったんでしょうか。
改めて考えると、<事態の説明・予測・制御>という機能において、両者は明瞭に競合する部分があり、しかもこの点では科学の方がずっとうまくやれたので、両者の対立(敵意)が、主に宗教の側から科学に向けられたのも、むべなるかなという感じです。
おそらく、科学との対立を超えて宗教が目指すべきことは、「人は何のために説明を求めるのか?何のために予測と制御を必要とするのか?」という問いに答えること、すなわち人生の価値とか目標、あるいは幸福に絡む領域であり、そこに自らのアイデンティティを求めるべきではないかと思います。(えらい話が大きくなりましたが)
_ S.U ― 2013年02月01日 06時59分43秒
>「反動派」
佐田介石は知りませんでした。私が思ったのは梵暦の先輩の円通ですが、この人は「釈」がついているけど、真宗ではなく天台宗のようです。私の認識間違いでした。
日蓮宗の「予測」については、日蓮が彗星の出現を国難の予兆としたことが挙げられます。これは、日本の民間風(あるいは西洋風?)の事案であり、当時の日本のオフィシャルな考え方と違ったのでは、という考察をしたことがあります。科学的な話ではないので多少脱線になりますが、よろしければ、リンクURLの拙論の「日蓮の...」と「おまけ」をご覧下さい。
さらにいうと、日本の江戸時代の朱子学は禅宗の影響が大きいそうですから、何らかの宗派の違いが西洋科学に向かう姿勢の関連に働いている可能性はじゅうぶんにあります。
佐田介石は知りませんでした。私が思ったのは梵暦の先輩の円通ですが、この人は「釈」がついているけど、真宗ではなく天台宗のようです。私の認識間違いでした。
日蓮宗の「予測」については、日蓮が彗星の出現を国難の予兆としたことが挙げられます。これは、日本の民間風(あるいは西洋風?)の事案であり、当時の日本のオフィシャルな考え方と違ったのでは、という考察をしたことがあります。科学的な話ではないので多少脱線になりますが、よろしければ、リンクURLの拙論の「日蓮の...」と「おまけ」をご覧下さい。
さらにいうと、日本の江戸時代の朱子学は禅宗の影響が大きいそうですから、何らかの宗派の違いが西洋科学に向かう姿勢の関連に働いている可能性はじゅうぶんにあります。
_ 玉青 ― 2013年02月02日 15時22分37秒
日蓮と彗星の記事、拝読しました。
漫然と読んでいると特に異とすることもなく、そのままスッと読み流してしまいますが、おっしゃるとおり日蓮の彗星解釈は、考えてみるとちょっと西洋風ですね。天文道の人であれば、「客星○○を犯す」式に、天球上の位置関係からこじつけて、種々の解釈を施すかもしれませんが、彗星そのものを禍々しいオーメンと解釈したのは、仏教本来の考えにもないはずで、斬新といえば斬新です。
ひるがえって、日本古来の感覚として、彗星ははたしてどんな存在であったのか、改めて考えるとどうもはっきりしないことに気付きました。素朴に考えると、見慣れないものが突如天に出現すれば不気味であり、漠然と凶兆とされたんではないかと思うのですが、抱影翁の「彗星の和名」という一文(『日本の星』-中公文庫-所収)には、「扶桑略記」を引いて「天慶四年(941)三月、西方に星が現れて、光は白虹の如く、本細く末ようやく広く、程十里ばかり、二ヵ月にわたる。穂垂れ星というもので、その年は天下頗る豊かであった」とあり、古代には瑞兆とする観念も一部にはあったのかなあ…とも感ぜられます。
漫然と読んでいると特に異とすることもなく、そのままスッと読み流してしまいますが、おっしゃるとおり日蓮の彗星解釈は、考えてみるとちょっと西洋風ですね。天文道の人であれば、「客星○○を犯す」式に、天球上の位置関係からこじつけて、種々の解釈を施すかもしれませんが、彗星そのものを禍々しいオーメンと解釈したのは、仏教本来の考えにもないはずで、斬新といえば斬新です。
ひるがえって、日本古来の感覚として、彗星ははたしてどんな存在であったのか、改めて考えるとどうもはっきりしないことに気付きました。素朴に考えると、見慣れないものが突如天に出現すれば不気味であり、漠然と凶兆とされたんではないかと思うのですが、抱影翁の「彗星の和名」という一文(『日本の星』-中公文庫-所収)には、「扶桑略記」を引いて「天慶四年(941)三月、西方に星が現れて、光は白虹の如く、本細く末ようやく広く、程十里ばかり、二ヵ月にわたる。穂垂れ星というもので、その年は天下頗る豊かであった」とあり、古代には瑞兆とする観念も一部にはあったのかなあ…とも感ぜられます。
_ S.U ― 2013年02月02日 20時46分45秒
拙稿をご覧下さりありがとうございます。
日蓮の仏教については、何らコメントができませんので、元々の主旨ではありませんが、彗星の軌道にそって脱線させていただきます。
>彗星ははたしてどんな存在
テレビドラマの話ですみませんが、NHK大河ドラマ「八重の桜」の先週の回「妖霊星」で、妖霊星というのは1858年のドナチ彗星のことのようでした。画面に彗星の画像は出て来ましたが、西洋画に見るドナチ彗星の絵とはあまり似ていませんでした。
この彗星は、ドラマでは、吉田松陰の処刑を始めとする一連の事件の凶兆としての効果を持っているようでした。これが、当時の史実であるか、すなわちドナチ彗星が民間で「妖霊星」と呼ばれたのかどうかは私は知りませんが、当時、彗星の出現が流行病と関連づけられたことはしばしばあったそうですので、幕末の彗星に先行き不安の空気を民衆が捕らえたことはきっとあったと思います(これは、拙稿に書きました)。
彗星がある時は流行病の凶兆と見られ、ある時は豊年の瑞兆と見られたことの意味はよくわかりませんが、おそらく、一般の日本人は、天体を絶対的な神として畏れ信じるのではなく、民衆にいろいろなことをあらかじめ教えてくれる親切な人格?を持った自然現象、たとえて言えば、村にいる物知りの年寄りのような存在と感じていたのではないでしょうか。
日蓮の仏教については、何らコメントができませんので、元々の主旨ではありませんが、彗星の軌道にそって脱線させていただきます。
>彗星ははたしてどんな存在
テレビドラマの話ですみませんが、NHK大河ドラマ「八重の桜」の先週の回「妖霊星」で、妖霊星というのは1858年のドナチ彗星のことのようでした。画面に彗星の画像は出て来ましたが、西洋画に見るドナチ彗星の絵とはあまり似ていませんでした。
この彗星は、ドラマでは、吉田松陰の処刑を始めとする一連の事件の凶兆としての効果を持っているようでした。これが、当時の史実であるか、すなわちドナチ彗星が民間で「妖霊星」と呼ばれたのかどうかは私は知りませんが、当時、彗星の出現が流行病と関連づけられたことはしばしばあったそうですので、幕末の彗星に先行き不安の空気を民衆が捕らえたことはきっとあったと思います(これは、拙稿に書きました)。
彗星がある時は流行病の凶兆と見られ、ある時は豊年の瑞兆と見られたことの意味はよくわかりませんが、おそらく、一般の日本人は、天体を絶対的な神として畏れ信じるのではなく、民衆にいろいろなことをあらかじめ教えてくれる親切な人格?を持った自然現象、たとえて言えば、村にいる物知りの年寄りのような存在と感じていたのではないでしょうか。
_ 玉青 ― 2013年02月03日 10時16分23秒
これまた抱影翁の『日本星名辞典』によると、「妖霊星」の名は『太平記』に「天王寺の妖霊星を見ばや」云々とあるのが大本で、軍談講釈の流行とともに、その名が人口に膾炙したという趣旨の記述があります(さらに明治に入り、太平記に取材した黙阿弥の芝居「高時」で、妖霊星の名はいっそう有名になったとか)。
で、問題の太平記の記述は、さらにその典拠があるわけではなく、昔の田楽能に、「天王寺の弱法師(よろぼし)」云々というフレーズがあるのをもじって、太平記の作者が創作した名であろうと翁は結論付けています。
そういうわけで、妖霊星は何か特定の天体や天文現象を指すわけではなさそうですが、いかにも印象的な名前ですから、人々はいろいろなものを、その名で呼んだと想像します。
残念ながら「八重」は見ていないので、どんな文脈で妖霊星が出てきたのか分かりませんが、1858年(安政5年)は旧暦6月に日米修好通商条約が結ばれ、翌7月末から10月にかけてはコレラが大流行し、世情が不安に満ち満ちていたときですね。
このことはS.Uさんも既にお書きになっていますが、今、江戸の人、斎藤月岑が著した『武江年表』を読むと、その折の様子が生々しく感じられます。この年、江戸市中だけでも死者は2万8千余人、「三昧の寺院は混雑いふべからず、棺を積む事山の如く、〔…〕其のあたりの臭気、鼻を襲ふてたえがたかりし」という、まさに中世のペスト騒動さながらの惨状を呈していたようです。さらに流行は8月に入って、八重の住む奥州にも伝播した由。ちょうどその頃、空にドナチ彗星が現れたので、人々は凶兆と怖れおののいたことでしょう。
『武江年表』には、妖霊星の名こそ出てきませんが、ドナチ彗星の記述がしっかりありました。
「八月初旬より彗星、宵には乾(いぬい)の方、暁には艮(うしとら)の方に現はる事毎夜也。光芒北に靡きて甚だ長し。次第にちひさくなり、坤(ひつじさる)の方へより光芒南へ靡きけるが、九月中旬に至りて見えずなりぬ。」
なかなか観察が細かいですね。形状の変化が目に見えるようです。
ドナチ彗星を「妖霊星」と呼んだ同時代資料が、今パッと思いつきませんが、探せば何となくありそうな気がします。
+
ところで、彗星の意味付けについて、古来吉凶二説があったのでは…ということを前のコメントで書きましたが、明治に入ってからも同様であったことに気付きました。
国立天文台の貴重書展示に、1882年(明治15)の大彗星を描いた錦絵が何枚か展示してあります。(http://library.nao.ac.jp/kichou/open/036/index.html)
4枚目の「ほうき星」と題した図には、女性が彗星に鏡餅を供える様子が描かれ、「或人曰く これは豊年の星なりと 因て諸人これを敬仰すといふ」というキャプションが添えられています。また、その下の「彗星の圖」では、「無学の僻説」と退けつつも、彗星を「吉凶の前兆、豊年の星」とする民間の考え方を記しています。
で、問題の太平記の記述は、さらにその典拠があるわけではなく、昔の田楽能に、「天王寺の弱法師(よろぼし)」云々というフレーズがあるのをもじって、太平記の作者が創作した名であろうと翁は結論付けています。
そういうわけで、妖霊星は何か特定の天体や天文現象を指すわけではなさそうですが、いかにも印象的な名前ですから、人々はいろいろなものを、その名で呼んだと想像します。
残念ながら「八重」は見ていないので、どんな文脈で妖霊星が出てきたのか分かりませんが、1858年(安政5年)は旧暦6月に日米修好通商条約が結ばれ、翌7月末から10月にかけてはコレラが大流行し、世情が不安に満ち満ちていたときですね。
このことはS.Uさんも既にお書きになっていますが、今、江戸の人、斎藤月岑が著した『武江年表』を読むと、その折の様子が生々しく感じられます。この年、江戸市中だけでも死者は2万8千余人、「三昧の寺院は混雑いふべからず、棺を積む事山の如く、〔…〕其のあたりの臭気、鼻を襲ふてたえがたかりし」という、まさに中世のペスト騒動さながらの惨状を呈していたようです。さらに流行は8月に入って、八重の住む奥州にも伝播した由。ちょうどその頃、空にドナチ彗星が現れたので、人々は凶兆と怖れおののいたことでしょう。
『武江年表』には、妖霊星の名こそ出てきませんが、ドナチ彗星の記述がしっかりありました。
「八月初旬より彗星、宵には乾(いぬい)の方、暁には艮(うしとら)の方に現はる事毎夜也。光芒北に靡きて甚だ長し。次第にちひさくなり、坤(ひつじさる)の方へより光芒南へ靡きけるが、九月中旬に至りて見えずなりぬ。」
なかなか観察が細かいですね。形状の変化が目に見えるようです。
ドナチ彗星を「妖霊星」と呼んだ同時代資料が、今パッと思いつきませんが、探せば何となくありそうな気がします。
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ところで、彗星の意味付けについて、古来吉凶二説があったのでは…ということを前のコメントで書きましたが、明治に入ってからも同様であったことに気付きました。
国立天文台の貴重書展示に、1882年(明治15)の大彗星を描いた錦絵が何枚か展示してあります。(http://library.nao.ac.jp/kichou/open/036/index.html)
4枚目の「ほうき星」と題した図には、女性が彗星に鏡餅を供える様子が描かれ、「或人曰く これは豊年の星なりと 因て諸人これを敬仰すといふ」というキャプションが添えられています。また、その下の「彗星の圖」では、「無学の僻説」と退けつつも、彗星を「吉凶の前兆、豊年の星」とする民間の考え方を記しています。
_ S.U ― 2013年02月03日 12時39分12秒
>妖霊星
妖霊星の謎をお解き下さり、ありがとうございます。さすがは抱影翁、基本的用語は網羅していますね。常民が伝承してきた語にしてはできすぎていますので、文学作品中の創作というのはじゅうぶんに頷けます。
「八重の桜」では、八重がドナチ彗星を見て即座に「妖霊星」と断定していました。八重は会津の中級と見られる藩士の娘でしたが、東北の地方では武士の子も町民も認識に大差はなかったでしょう。もっとも八重の兄とその友人は蘭学を修めた開明派だったので、それを言下に否定しました。
ドラマでは井伊大老の就任、コレラの流行とともに妖霊星が現れましたが、ストーリーへの効果としては、安政の大獄から内戦への凶兆として繫がっていくのだと思います。
幕末になると、幕府も朝廷も彗星を怖れるなどという西洋人にナメられそうなことは推奨していなかったと思いますが、民間では明治に至まで、似たような状況だったのでしょうね。私の祖母も、子どもの頃に大人から「ほうき星がでると良いことはない」と聞いたと言っておりました。これは大正時代のことです。
妖霊星の謎をお解き下さり、ありがとうございます。さすがは抱影翁、基本的用語は網羅していますね。常民が伝承してきた語にしてはできすぎていますので、文学作品中の創作というのはじゅうぶんに頷けます。
「八重の桜」では、八重がドナチ彗星を見て即座に「妖霊星」と断定していました。八重は会津の中級と見られる藩士の娘でしたが、東北の地方では武士の子も町民も認識に大差はなかったでしょう。もっとも八重の兄とその友人は蘭学を修めた開明派だったので、それを言下に否定しました。
ドラマでは井伊大老の就任、コレラの流行とともに妖霊星が現れましたが、ストーリーへの効果としては、安政の大獄から内戦への凶兆として繫がっていくのだと思います。
幕末になると、幕府も朝廷も彗星を怖れるなどという西洋人にナメられそうなことは推奨していなかったと思いますが、民間では明治に至まで、似たような状況だったのでしょうね。私の祖母も、子どもの頃に大人から「ほうき星がでると良いことはない」と聞いたと言っておりました。これは大正時代のことです。
_ 玉青 ― 2013年02月03日 21時11分02秒
大正時代の思い出話というと、周囲の大人たちがお祖母様に語ってきかせた話の中には、彗星を不吉なものとする昔ながらの民間伝承と、明治末年にハレー彗星が接近した際に流布した「科学的」相貌の噂話とが、ないまぜになっていた可能性もありそうですね。
_ S.U ― 2013年02月05日 07時57分32秒
>ハレー彗星~「科学的」相貌
彗星の物理的正体が解明される過程でも新たな人心を惑わす憶測が出てくるわけで「科学的」というのも一筋縄ではいかないですね。
以下、またも祖母の「私事」に渡ることで恐縮ですが、調査していることもあるのでもう少しおつきあい下さい。祖母はこの迷信話を「その時に実際に夜空に『ほうき星』を見ながら聞いた」と言いました。それで、この彗星が何という彗星だったのか調べているのですが、特定できていません。1910年のハレー彗星は、見たとしても年齢的に憶えているとは思えない幼少の時で除外されます。1913~1925年あたりに限られるのですが、G.Kronkの本などを見る限り、この間に目立った彗星は出ていません。
ぼーっとした明るくない天体であった、と言っていたので大彗星でなくてよいのですが、逆に言うとそのような暗い天体を夜空に指して「ほうき星だ」と言った大人が当時の田舎にいたというのも不思議です。この間に出現した多少なりとも名のある彗星は、デラバン彗星、2つのメリッシュ彗星、1919年のフィンスラー彗星、1921年のポンス・ヴィネッケ彗星(タルホの言う「ポン彗星」)くらいで、いずれも夜空に肉眼で指させるほどに見えたのか疑問です。たとえば新聞などで彗星出現を知ったが、実際に見たのは彗星ではなかったのかもしれません。当時の彗星の出現状況について情報が見つかることがあれば、またいつでもよろしいのでお知らせ下さい。
調査中にこんなページを見つけました↓
(「賢治の時代に出現した彗星は?」 Kakurai氏「賢治の事務所」)
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/w/kenji_w4.htm
うちの祖母さんはさておいて賢治の研究をしていただいてよろしいです(笑)。
彗星の物理的正体が解明される過程でも新たな人心を惑わす憶測が出てくるわけで「科学的」というのも一筋縄ではいかないですね。
以下、またも祖母の「私事」に渡ることで恐縮ですが、調査していることもあるのでもう少しおつきあい下さい。祖母はこの迷信話を「その時に実際に夜空に『ほうき星』を見ながら聞いた」と言いました。それで、この彗星が何という彗星だったのか調べているのですが、特定できていません。1910年のハレー彗星は、見たとしても年齢的に憶えているとは思えない幼少の時で除外されます。1913~1925年あたりに限られるのですが、G.Kronkの本などを見る限り、この間に目立った彗星は出ていません。
ぼーっとした明るくない天体であった、と言っていたので大彗星でなくてよいのですが、逆に言うとそのような暗い天体を夜空に指して「ほうき星だ」と言った大人が当時の田舎にいたというのも不思議です。この間に出現した多少なりとも名のある彗星は、デラバン彗星、2つのメリッシュ彗星、1919年のフィンスラー彗星、1921年のポンス・ヴィネッケ彗星(タルホの言う「ポン彗星」)くらいで、いずれも夜空に肉眼で指させるほどに見えたのか疑問です。たとえば新聞などで彗星出現を知ったが、実際に見たのは彗星ではなかったのかもしれません。当時の彗星の出現状況について情報が見つかることがあれば、またいつでもよろしいのでお知らせ下さい。
調査中にこんなページを見つけました↓
(「賢治の時代に出現した彗星は?」 Kakurai氏「賢治の事務所」)
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/w/kenji_w4.htm
うちの祖母さんはさておいて賢治の研究をしていただいてよろしいです(笑)。
_ 玉青 ― 2013年02月06日 06時25分48秒
これはミステリーですねえ。
あまりお役に立てず心苦しいですが、一応同時代資料として、『理科年表』の1927年(昭和改元前に出たので、「大正16年」になっています)版と、1928年(昭和3年)版から「近代ノ主ナ彗星」、「最近出現ノ彗星」のページをスキャンしました。
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/comet1927
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/comet1928
(なお、これ以前の大正14年版(理科年表初版)と大正15年版も見たのですが、そちらには「最近出現ノ彗星」の項がありませんでした。)
>たとえば新聞などで彗星出現を知ったが、実際に見たのは彗星ではなかった
これは大いにありうることかと思います。
(実際の見え方はともかく)当時新聞で大いに話題になった可能性があるのは、「日本人が世界で最初に発見した彗星」である、1919年の「フィンレー・佐々木彗星」(これは日本人が独立発見した最初の彗星だそうです)と、1920年の「テンペル・百済彗星」ではないかと想像します。以下、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』(大正11年)の「第10章第1節 彗星の研究」から「有名な彗星」と題された文章の一部をスキャンしました。
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/nikugan
独立発見と認められなかったものも含めて、この間の情報は、『日本アマチュア天文史』の「8 彗星―発見を主として」(筆者は長谷川一郎氏)にも詳述されていますが、「世上話題になった彗星」という切り口ではないので、世間一般での受け止め方は不明です。(最終的には直接新聞に当たるしかないかも…)
以上、何かのご参考になれば幸いです。
S.Uさんの謎解きの成果を楽しみにしています。
あまりお役に立てず心苦しいですが、一応同時代資料として、『理科年表』の1927年(昭和改元前に出たので、「大正16年」になっています)版と、1928年(昭和3年)版から「近代ノ主ナ彗星」、「最近出現ノ彗星」のページをスキャンしました。
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/comet1927
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/comet1928
(なお、これ以前の大正14年版(理科年表初版)と大正15年版も見たのですが、そちらには「最近出現ノ彗星」の項がありませんでした。)
>たとえば新聞などで彗星出現を知ったが、実際に見たのは彗星ではなかった
これは大いにありうることかと思います。
(実際の見え方はともかく)当時新聞で大いに話題になった可能性があるのは、「日本人が世界で最初に発見した彗星」である、1919年の「フィンレー・佐々木彗星」(これは日本人が独立発見した最初の彗星だそうです)と、1920年の「テンペル・百済彗星」ではないかと想像します。以下、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』(大正11年)の「第10章第1節 彗星の研究」から「有名な彗星」と題された文章の一部をスキャンしました。
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/nikugan
独立発見と認められなかったものも含めて、この間の情報は、『日本アマチュア天文史』の「8 彗星―発見を主として」(筆者は長谷川一郎氏)にも詳述されていますが、「世上話題になった彗星」という切り口ではないので、世間一般での受け止め方は不明です。(最終的には直接新聞に当たるしかないかも…)
以上、何かのご参考になれば幸いです。
S.Uさんの謎解きの成果を楽しみにしています。
_ S.U ― 2013年02月06日 19時31分08秒
おぉーっ、詳しいお調べありがとうございます。
賢治やタルホならともかく、うちの祖母さんの大正時代の思い出話などにおつきあい下さり、もったいねぇことでござんす。
ご提供の当時の理科年表の情報のお陰様で、1913~1925年には、目立った彗星はデラバン彗星しかなかったことがほぼ確認されました。デラバン彗星は2等になったということですが、かなりの低空だったので実際に見たとは思えません。
クロンク著のCometographyを見るとすべての彗星について観測状況が出ているのですが、西洋のプロの観測ばかりなので、日本の庶民にも見えたかどうかは、いちいちシミュレーション計算をしないとわかりません。目立った候補がないことがわかりましたので、可能性の残るものをピックアップして、シミュレーションをすることにします。また、当時の新聞にもあたってみます。日本人が発見した彗星、という視点は思いつきませんでした。
それから、稲垣足穂がどうして1921年の「ポン彗星」の接近情報を知り、なぜそこまで熱を上げたのかも知られていないと思いますが、副産物としてその情報も得られると良いと思います。祖母さんの副産物がタルホさんとはこれまた恐れ多いことでござんす。
賢治やタルホならともかく、うちの祖母さんの大正時代の思い出話などにおつきあい下さり、もったいねぇことでござんす。
ご提供の当時の理科年表の情報のお陰様で、1913~1925年には、目立った彗星はデラバン彗星しかなかったことがほぼ確認されました。デラバン彗星は2等になったということですが、かなりの低空だったので実際に見たとは思えません。
クロンク著のCometographyを見るとすべての彗星について観測状況が出ているのですが、西洋のプロの観測ばかりなので、日本の庶民にも見えたかどうかは、いちいちシミュレーション計算をしないとわかりません。目立った候補がないことがわかりましたので、可能性の残るものをピックアップして、シミュレーションをすることにします。また、当時の新聞にもあたってみます。日本人が発見した彗星、という視点は思いつきませんでした。
それから、稲垣足穂がどうして1921年の「ポン彗星」の接近情報を知り、なぜそこまで熱を上げたのかも知られていないと思いますが、副産物としてその情報も得られると良いと思います。祖母さんの副産物がタルホさんとはこれまた恐れ多いことでござんす。
_ 玉青 ― 2013年02月07日 22時15分20秒
やっつけ仕事が多少なりともお役に立てたのであれば幸いです。
だんだんタルホ、賢治も巻き込んでの「大正彗星誌」の趣になってきましたね。(^J^)
だんだんタルホ、賢治も巻き込んでの「大正彗星誌」の趣になってきましたね。(^J^)
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たぶん、仏教の僧侶さんの宇宙観は、現代天文学の描像と「波長が合う」部分が多いのではないかと思います。これは、江戸・明治の昔とて変わらなかったかもしれません。
(『知恵袋』で紹介された情報)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1287536302